創作(玉手橋:第8回自由都市文学賞入賞作)
玉手橋(第8回自由都市文学賞入賞作)
石井孝一
典子は唇を噛み、孝雄から眼を逸らすと、窓の外に眼をやった。二月初旬で、時折粉雪が舞う今冬一番の寒い日であった。孝雄達は看護婦の指示で、病棟特有の鉄格子のあるこの部屋で、さきほどから担当医を待っていた。
神経科病棟の北側には府立高校があり、孝雄達のいる部屋の窓からそのグラウンドの広がりが一望出来た。
寒風にもめげず白球を追う球児達の張り叫ぶ声、バットで白球を叩きはじく単調だが規則正しいノッカーの乾いたバット音とが先程から一つの旋律となって絡まりながら、校舎と病棟とで反響を繰り返していた。耳障りで忙しげな暖房用のスチームの出す掠れた音が寡黙な孝雄達を遠巻きにしていた。
二人の間に会話はなかった。何か言えば悲観的な言葉しかでないような気がした。孝雄は球児達の動きを追いながら、いつしか遠い夏の日を思い出していた。
「・・・・あれは延長に入ってからやった。なにやしらんねんけど、バッターボックスに入る相手校の選手が急にちいそう見えるようになったんや。投げてて迫力感じんようになってきたんや。肘が折れるぐらい痛うて、練習球投げるのも辛うて、球威もなくなってきてたのに、不思議と打たれる気がせえへんかった。おかしいやろ」
懐かしいベーヤンの声だ。市内に複数の賃貸ビルを所有する、金持ちの息子で話し方までのんびりしている。
「ほんまに勝つんと違うやろかて思うたわ。勝ったら夢の甲子園や。そう思うたら嬉しいなってきた。・・・で、そんなんが二、三回あってその次の回やったかな。延長12回やったと思うわ。キャッチャーのサイン見てたら、急にバッターの顔が間近に見えたんや。顔見てびっくりしてしもうたんや・・・」
「どんな顔やったかて? 」
「・・・泣いとるんや。眼の周りが真っ赤になって涙が浮かんどる。次の選手も、その次の選手も。出てくる選手みんながそうやねん。泣き顔の奴もおるし、ほんまに泣いとる奴までおった。こっちは真剣勝負してるつもりやのに、なんやそれ見てたらおかしな気分になってきてしもうてな」
「どんな気持ちや? 」
「なんや知らんけど可哀想になってきたんや。何回か攻撃の時にベンチで考えてたら、あいつらの涙の意味がようやく分かったんや。・・・よう考えたら、あいつら野球が命より大事な奴ばかりなんや。俺らと違うて、つまり野球でもやろかいうてやったんと違うて、小さい頃から甲子園出るためだけに頑張ってきた奴ばかりなんや。そういう意味では気持ちはプロみたいなもんや。それがあと一歩というところで、俺らみたいな、素人みたいな公立校に手こずってるんやからな。そう考えたらあいつらの情けない、歯がゆい気持ちがようわかったんや。・・・なんで勝たれへんのや。なんでこんな球打たれへんのや。そう思うて自分自身が情けのうなって泣いてるんやとわかったんや。なんやしらんけどあの涙に同情してしもうたんかな。サヨナラホームラン打たれた時もそうやった。あの一球は勝たしたらんと可哀想やないかなて思いながら投げたんやから」
「アホやな、お前は・・・」
「きっちり打たれて、それで負けたけど。・・・あのときは打たれた瞬間入ると思うた。・・・弧を描きながらゆっくり外野スタンドに落ちるまで球を見送りながら、悔しいなんてこれっぽっちも思わんかったんや、正直言うて。気がついたらみんなグラウンドに頭こすりつけて泣き崩れとったけど、俺は重い肩の荷が取れたようで、スッとしてたんや。心の底からこれで良かったんやな、としみじみ思うとったんや」
「お前はやっぱりアホやな・・・」
「そうか、やっぱりお前もそう思うか。・・・せやけど、ほんまの話なんや・・・・」
時報を知らせる柱時計で孝雄は現実に引き戻された。典子は依然押し黙ったまま俯いていた。そうした重苦しい雰囲気に耐えきれず、孝雄のほうから典子を励ますつもりで沈黙を破った。
「しばらく入院してゆっくりすることや。ここやったらいろんなこと耳にはいらへんから、余計なこと考えんでもすむから」
「・・・・・」
「心配ない。すぐ帰れる。今は治療に専念する方が最優先や。長田先生もそういう考えや・・・」
「そやけど入ったらもう出れんようになるんとちがうやろか・・・何かそんな気がするんや」
「そんなことない。治療もせんと家でごろごろしているほうが余計悪いんと違うか」
「・・・・・」
「早く治して、また昔みたいに元気な典子に戻らんとあかんがな」
「うん・・・」
ノイローゼは完治するということが難しく、何かの拍子にこうやってぶり返すのだ。今年で十歳になる優が三歳の時になった頃に発病したから、もうすでに七年にもなる。
結局、その日は担当医や孝雄の説得も及ばず、典子は頑として入院を拒んだ為に、自宅療養ということになった。
帰りの車の中で入院せずにすんだ安堵感からか、急に典子は昔話をし始めた。典子には躁と鬱とが急に反転するようなところがあった。
「孝ちゃん覚えてるかな?」
「何をや?」
「高校二年の一学期の中間テストの最中でクラブが休みやった時、あんまりええ天気や言うて、勉強もせんと弁当作って二人で国豊橋近くの大和川行ったことあったやろ」
「ああ、覚えてる」
「あの時いつも一緒のベーヤンが珍しく勉強するわ、言うて来んかったんや。覚えてる?」
「ああ、そうやったな。いつも勉強せんのにベーヤン、あの時に限って、そうやったな」
「孝ちゃん、朝から夕方まで釣り糸垂れてたな。私はもう退屈してしもうて、腹立ってきて、途中で一回帰って家でしばらくテレビ観てたんやった」
「そうやったな。典子、急に怒ったみたいにしておらんようになってしもうたな」
「えらい釣り好きなんやなと思うたんやけど、なんやその割に釣れへん。最初は場所のせいかな、とか考えたんやけど、隣の子供は次から次に釣ってたもんな。あの時、何でよう釣らんの、て聞いたら言うたやろ、孝ちゃん平然として、「俺は瀬を流れる水の音聴きたいから、釣りしてるんや」って。あの晩、家に帰ってそのこと、義冶兄ちゃんに言うたんや。そしたらどない言うたと思う? 「あのなあ・・・変わった奴やな、野村いう奴。サッカーやってるそうやが、ヘディングばっかりしてるから頭イカれてしもうとるんと違うか? 大丈夫か、ほんまに。お前そんな奴とつき合うの、止めといた方がええんと違うか、言うといたるわ、あいつの頭絶対イカれとるはずや」・・・そない言うたんやったわ」
話す内容も口調も元気なころと変わらず、先程までの鬱症状は仮病だったのかと疑いたくなるほどであった。
「えらいこと言われとったんやな、ヘディングで頭イカれてるやて、そらあんまりやな」
孝雄は苦笑した。典子の話に出てきた次兄は孝雄達より二歳上で、当時K大学の学生で孝雄たちの高校の先輩でもあった。
「せやけど、わたしもほんまにそうかなて思うたもん」
「釣りに行ったんは覚えてるけど。へえ、そんな事ほんまに言うたんかな?よう覚えてへんわ」
それから二ヶ月程経った平日の午後、営業所の孝雄のデスクの頭上に取り付けられている大きな丸時計が午後四時を指していた。心配された典子の病状も暖かくなるにつれて良くなっていた。週に一度の通院でも担当医からは特にこれといった指示もなく、形式的な診察に終始した。自分でもそのことが嬉しいらしくて、自分から冗談を言うほど陽気になってきていた。義兄夫婦を連れだってカラオケボックスにも何度か行き、みんなの前で歌を歌っては女学生のようにはしゃぐほどにも回復してきていた。
その日は二ヶ月に一度行われる営業所全員による所内会議の日で、孝雄にとっては赴任後初めての全体会議であった。一時間ほどの時間を割いて意見を交換しあうのだ。上下の分け隔てはない。茶話会のような気楽な雰囲気の中で、日頃、仕事をしていて気づいた事、感じた事を自由に述べ合い、みんなで仕事の環境をより良くし、さらには生産性向上をはかっていこうとする会議であった。さすがに勤務時間中だから量は少ないが酒類もテーブルに並べてあった。
野村孝雄のデスクのすぐ近くでは萩原美子達が酒のつまみや茶菓子を皿に盛ったりしながら、十月に予定されている秋の社内旅行のことで、幹事役の佐藤という若い男子社員を捕まえ、あれこれ注文をつけていた。よく考えると、今が四月だからまだ随分と先の話であった。
「今年は私たちの希望聞いてもらわんとあかんわ」
と五十嵐信子が佐藤に言った。
「うん、まだ考えてへんけどな。せやな、そろそろ考えんとあかんかな。・・・そのうちに旅行会社に行って来るわ。なんやどこか行きたい所あるんか?意見はなんぼでも聞くさかい、言うてや。ただし高こうつく所はあかんで、何しろ予算があるよってな。まあ、今のところゴルフという案が出てるんやけど」
「あっ、そんなんずるいわ。去年もゴルフやったやないの」
「やっぱり温泉がええねんな。なあ佐藤君、今年は温泉のあるところに決めようや。わかってるやろ」
と萩原美子に断定的な口調で言われて、去年大学を出て入社してきた若い佐藤は、孝雄の方をちらっと見た。手強い相手だから、なにかあれば助けてください、とでも言いたそうな顔であった。美子の方が確か二歳ほど年上のはずであった。
美子は明るい性格で、気持ちの切り替えも早く、仕事ぶりもテキパキしていて好感が持てた。後輩の面倒見もよく、女子社員のよき相談相手でもあった。美人というわけではないが、中肉中背で、よく陽に焼けた小麦色の肌は艶がよい。利発そうで、どこかまだ幼さの残る小さな顔は笑うと形よく並んだ白い歯がきれいであった。
美子の鼻筋の通った横顔を垣間見ながら、赴任前の酒席で隣り合わせになった、かって美子の上司であったという同期の垣内課長の言葉が孝雄の脳裏をよぎった。
南営業所にいる萩原美子には気をつけなあかん。あの娘はどうも人を狂わすもんがある。ちょっと見たらなんでもない娘やけど。お前は大丈夫やと思うけど、とにかくあの娘には気いつけた方がええ、と何度も垣内が言うものだから、赴任後しばらくの間、一体萩原美子というのはどんな女の子なんだろうか、と孝雄は興味深く観察していた。しかし美子のどこにも垣内の言うような素行もなかったし、またそんな噂話を聞くこともなかった。ひょっとすると、垣内が美子に横恋慕でもしていて、軽くあしらわれた事に対する腹立ちまぎれの作り話に違いないと考えるに至った。
孝雄は会議の準備のために給湯室と事務所を行き来する美子の目立って大きくはないが、形の良い胸の脹らみや、スラリと伸びた形の良い脚をぼんやり眺めながら、垣内の神経質そうな眼鏡の奥に潜む、そわそわと落ちつきのない狡知な眼を思い出して、孝雄はひとり苦笑した。
春の辞令で将来を嘱望されている前所長が東京本社に栄転し、関西支社の第二営業課長であった孝雄が、その後任としてこの南大阪営業所長として任命されたのであった。どちらかと言えば孝雄も栄転であった。
「俺は知らんが、聞いたところによると去年の借りがあるらしいな、佐藤君。なんとか萩原君達の希望を叶えたってや」
と孝雄は笑みを浮かべながら美子に目配せし、美子達に助け船を出した。
「所長まで彼女らの味方ですか、かなわんな」
去年の旅行は前所長の強引な指図で、ゴルフ中心の行程だった為、女子社員たちにはとても評判が悪かったのだ。
「温泉とそれから魚の美味しいとこやね。それから欲言うたら切りないけど海の見える部屋、それも夕陽の見える部屋やったら最高やな」
と五十嵐信子が追い打ちをかけた。
「それやったら白浜か勝浦がええのんと違う」誰か他の女子社員が言った。
「今年の夏、家族で白浜へ行って来たけど高いばっかしやったわ。サービスも悪かったし。勝浦温泉のほうがええんと違うの」
と五十嵐信子が返答した。
「白浜のどこで泊まったん?」
「高台にあるSホテルやねん。政府登録らしいけど中味がなにもない、高いだけのホテルやったわ」
「うへぇ、えらいこっちゃな。誰か幹事変わってえな。萩原さんらの希望や話聞いてたら、なんや気重うなってきてたわ」
と佐藤は女子社員が口々に喋るのを聞いて弱音を吐いた。
「佐藤君よ。そのかわり一生懸命ええ所探して萩ちゃんらに気に入ってもろたら、萩ちゃんらが夜になったらえらいサービスしてくれるがな。そやからそれまでアソコきれいに洗とかなあかんで。その時はおっちゃんも呼んでや。ええか、独り占めはあかんで・・・」
来年定年を迎える取付修理班の新谷達夫が横から口をはさんだ。営業所の最古参であった。どこか達観としていて、時々、気が若いのか、人を食ったようなおもしろい話をする。それにすでに孫もいる初老の新谷にはどこか父親を思わせるような安心感や包容力があって、女子社員達の受けがよく「おっちゃん、おっちゃん」と呼ばれて親しまれていた。
「わっははは・・・」
どっと笑いの渦が事務所内に沸き起こった。孝雄も思わず吹き出して笑ってしまった。
会議は目新しい問題点も提案されることなく、時間通りに散会となった。
それにしても景気の回復は予想以上に鈍い。本業の業務用冷蔵庫の販売ももちろんおもわしくなかったが、入社間もない、思わぬ若い営業員の頑張りによって大口のリース契約が取れたおかげで、業績は今のところ前年比でいい数字が出ている。景気を考えると及第点はもらえそうであった。営業所には支社と違って若い社員が多く、自由闊達な雰囲気が良くも悪くもあった。孝雄もそうだが、元来、人を型に填めるような締め付けは嫌いだった。だから就任後、顔をしかめるような事もあったが、しばらくは何も言わずに傍観することに決めていた。
孝雄の会社は大手家電の名前を冠する業務用冷蔵庫メーカーの販売会社であった。当然、親会社の息がかかっているから間口は広い。全国の主要な都市には営業所が分散し、孝雄の営業所もそうした中の一つであった。
五月の連休の朝、孝雄は自宅から歩いて十分ほどの道明寺駅へ向かっていた。道路を横断すれば石川に架かる玉手橋で、橋を渡ればすぐ駅であった。
保守契約を結んでいる顧客のため、ゴールデンウィークといえども営業所の男子社員には休みがなく、交代で休みを取るのであった。冷蔵会社や倉庫業に始まり、町の商店までもが顧客であった。顧客の中には全国にチェーン展開している年中無休のコンビニもあった。メンテナンスの善し悪しは営業活動にも大きく影響するからこうして休日でも迅速に対応できるサポート態勢を敷くのだ。それに併せて修理班員の技量と充実もきわめて重要なことであった。たとえば機械装置の入れ替えなどの時には、日頃のきめの細かいメンテナンスが価格や優秀な営業マンの口先以上にモノを言うからだ。
石川に架かる玉手橋の下、道明寺側の河川敷の少年達の野球場に金粉を宙に撒き散らしたような眩い朝日が当たっていた。バックネット脇に、おそらくまともな支柱もないであろう、片方にくびれたバラック小屋が数戸ある。多分、道具入れかなにかだろう。バックネットとその周辺のフェンスは壊れる度に補修されているらしく、あちこちの板切れを張り合わせて釘で打ち付けてあった。グラウンドの領域も、継ぎ接ぎだらけの緑のネットで囲い、区切られてあるだけの、地元の人が「鳥かご」と呼ぶ、なんともお粗末な囲いだけの野球場であった。
少年達の溌剌とした叫び声が休日のすっかり弛緩した青空に響き渡っていた。いつもの休日の朝の光景であった。孝雄が玉手橋を渡っていると、グラウンドから橋に向かって声は出さずに盛んに手だけを振る者がいることに気がついた。少年達と同じ紺の野球帽から黒い髪があふれ、上下揃いの淡いピンクのジャージを着込んだ女性が力一杯手を振っていた。孝雄は後ろを振り返ったが誰もいない。橋の上には孝雄以外、誰もいなかった。まさか自分に手を振ってくれているはずがない、誰かと見間違えているのだ。そう思って橋を渡り車道を横切り、洋酒工場の角を曲がり、駅に向かう坂を下ろうとした時、孝雄は背後から呼び止められた。
「所長、今から出勤ですか」
振り返るとピンクのジャージを着込んだ美子が堤防道に立ち、息を弾ませながら笑っていた。
「・・ああ、なんや君か。さっき手を振ってくれたのは君やったんか。盛んに手を振ってくれてるんやけど、少年野球の人には心当たりあらへんしな、人違いやと思うてたんや。それにしてもなんでそんな格好してるんや」
「うちの兄貴が前からここのチームの監督してるんですわ。私はそのアシスタントというとこですねん」
「へえ、ごくろうやな。・・ボランティアか?」
「好きなんですわ。こうして子供達と遊んでるんが。気が晴れるんです。・・・私もノック受けたりバット持って打席に入るんですよ」
「君はもともと保母さんやったんやな。へえ、楽しそうやな。似合うてるよ、その格好・・・」
「所長の息子さんは何年生ですの?」
「五年生なんや、玉手山小学校の・・・」
「あのう、お子さん、野球は嫌いなんですか? ・・・よかったら、うちのチームに入れてあげはったらどうです?」
「うん、ありがとう。僕の友達に野球の上手な奴がおって、小さい頃、よう教えて貰うとったんやが、そいつが二年前に怪我で歩けんようになってからはご無沙汰みたいやな。いまでも野球するんかな、あいつ?」
「一度聞いてみてやって下さいよ。体にもええことやし」
「ああ、ほんまやな。聞いてみるわ。家ではファミコンばかりしるらしいし・・・」
「日曜日や休日の朝は雨が降らん限り、ここのグラウンドに来てますねん。いつでも入部オーケーですよって」
その時グラウンドから「オーイ!バックバック!」と美子を呼ぶ男の声がした。何をしてるんや。はよ帰ってこいかい、とでも言うような呼びかたであった。
「恥ずかしいですやろ、大きな声だして。あれ私の兄ですねん。呼んでるから行きますわ。これから紅白試合しますねん。ああ、それはそうと、所長が奥さんとお子さん三人で玉手橋渡ってはったん見ましてんよ。赴任後すぐの日曜日でしたわ。それにしてもきれいな奥さんですねんね。所長は優しいし、奥さん幸せですやろな」
「うむ、どこで見てたんや、そらちょっとおかしいで。まさか、あんな下から見ていて顔わかるはずないやないか」
「商売道具のこれ持ってますもん」
そう言うと、美子は両方の親指と人差し指でそれぞれ和を作ると、眼の周りに当てて双眼鏡のまねをしてみせた。
「へえ、そんなんで見られとったんか。それやったらまるでスパイやないか・・・これから気つけるわ」
二人は顔を見合わせながら苦笑した。
その夜、美子に勧められた少年野球の事をそれとなく優に話すと孝雄にとっては意外な答が返ってきた。
「ほんまに入れてもらえるんか?お父さん」
優の眼が輝いた。孝雄は久しぶりに優の笑顔を見たような気がした。病気のことでは子供の優なりに典子のことを心配し、気持ちまで委縮しているに違いなかった。義父母や孝雄には喜怒哀楽をぶちまけるのに、典子にはほとんど我侭や口答えをしない事からも典子の病気を気遣っているのが誰の目にも痛いほどよくわかった。
「ああ、いつでも来てくれたらいい、て言うたはる。入りたいんか、お前」
「もちろんや。他のチームやったら嫌やけど、あのフェニックスやったら入りたいわ。みんなのあこがれやねん。強いんやで。このへんであのチームに勝てるとこはどこもないんやで。昔から入りたかったんや。いつも玉手橋から見とったんや」
「へえ、そんなに強いんか」
「お父さんは何も知らへんな。渡辺のおっちゃんといつも話しとったんや。大きいなったらフェニックスに入れるように頑張ろうな、言うて・・・。???ああ、そやけどあそこは入る時、テストあるんやで、お父さん。テストの事何も言わはれへんかったんか。簡単には入られへんで・・・」
「うん???・・・そんな強いチームなんか?」
テストがあるなんて美子はひと言も言わなかった。それと子供たちが憧れるような強豪チームだとも優に言われるまで孝雄は全く知らなかった。
「あそこの監督さん、むかし甲子園に出やはったんやて。おとうさん、それくらい知ってるやろ?」
「いや、知らんかった。初耳や」
平然と答える孝雄に、へえ、と優は大げさに呆れてみせた。
「あのな、おとうさんは何年渡辺のおっちゃんの友達やってるんや。おっちゃん元気やったらおこらはるで」
「なんでやねん。フェニックスの監督のこと知らんかったからいうて、そのことで何でベーヤンにおこられなあかんねや。関係あらへんがな」
「お母さんでも知ってたんやで、フェニックスの監督のことは」
「なんやて、お母さんまで知ってるやて。どういうことやねん、お母さん」
先ほどから二人のやりとりを黙って聞いていた典子が口元に手を当てがって笑いを抑えた。
「何でお前が知ってんねや。誰やねん一体?」
「決勝戦でベーヤン達負けたやんか。あの時の相手校のピッチャーしたはった人や。これで思いだしたやろ?」
日生球場での野球部の決勝戦は孝雄も忘れたことはない。あの前の日、サッカーの練習中に中指を骨折した孝雄は典子達に混じってスタンドで応援していた。
あの試合は府の球史に残る緊迫した好試合だったと今でも語り継がれている。両校無得点で、延長戦になって、決着がついたのは十五回裏だった。先頭バッターがベーヤンの投げた初球をライナーでレフトスタンドに弾き返したのであった。それまでの緊張した雰囲気からは考えられないほど呆気ない幕切れだった。
敗戦が決まった後、目を真っ赤にした腫らした典子の肩を抱き寄せながら、孝雄もしばらくは放心状態で、少し痛みの走る添木の上から包帯で巻かれた人差し指を眺めていた。打ったのは相手のピッチャーだったことは記憶に残っていたが、その名前までは覚えていなかった。
「??萩原・・・」
咄嗟に美子の名がでた。
「そうや当たり。萩原さんや。あの人教え方上手いらしいわ。ある時ベーヤンが私に、優が野球やりたいて言いだしたら、萩原さんに鍛えてもろうたらええわ、て言うてたことあったもん」
典子はいつもの甲高い声で言った。
急に、孝雄は不安になった。かりにそんな強豪チームに縁故で入れてもらえたとしても、技量の違いすぎる子供にとっては練習が辛いだろうし、面白くないに違いない。結局落ちこぼれて、玉拾いばかりさせられ、ふてくされるかもしれない。優の野球の技量のほどはよくわからないが、まず大したことはあるまい。
「その監督の妹がうちの会社にいてるんや。その子も野球の手伝いをしていて、それで優を誘ってくれたんや。いつでも入ってくれ言うてる。テストなんかあらへんはずや。そやけど優、自信あるんか。球拾いだけで終わるかもしれんで。それでもええんか、我慢できるんか?」
「うん。出来るかどうかわからへんけど頑張るわ」
「がんばりや、優。ベーヤンのおっちゃん元気になったら応援しに来てくれるわ。それまでに頑張ってレギュラーにならんとな」
と典子が横から励ました。
一人息子として甘やかされてきて、わがままな優がこんなにも意欲的な意志表示をしたということが、孝雄には何よりも嬉しかった。明日さっそく美子に優のことを頼んでみよう、と孝雄は思った。
営業所から近鉄富田林駅まで歩いても五分とかからない。それでも孝雄は日の暮れた雑踏をかきわけながら駅に急いだ。朝出かけるときの典子の様子が少し変だったからだ。ここから道明寺までは普通で約十二、三分ほど電車に乗るだけだ。
道明寺駅を出て踏切を渡って東側に移り、なだらかな短い坂を上ると石川の流れに沿って南北に走る堤防道に出る。さらに孝雄の住む玉手町に行くには石川に架かるワイヤーで吊られた年代物の玉手橋を渡らなければならない。橋は二本のメインタワーを擁し、両端のアーケイドにもタワーがあって、合計四本の低いタワーを使って全長百メートルほどの長さを支えていた。橋の両端の入口には二本の太いコンクリート杭が等間隔で立ち並び、自動車の進入を拒んでいた。
橋の袂に灯る電灯の明かりを頼りに孝雄は腕時計に視線を落とした。家路を急ぐ自転車やら歩く人が、無表情で孝雄を追い越して橋を渡っていく。夜の八時を少し過ぎていた。橋の中程で歩を止めると、孝雄は自分の胸の高さほどの欄干越しに、眼下にある暗い流れをのぞき込んだ。橋から五百メートル程上流には三段の堰があって、激しく流れ落ちるその水の音色に孝雄はしばし耳を澄ませた。織機の様な単調で忙しいだけの騒音によく似ていたが、孝雄につかの間の落ちつきを与えてくれるのであった。
孝雄は子供の頃からおよそ水が奏でる音色がわけもなく好きだった。激しく叩き落ちる滝や堰の水の音。浜や岩礁に寄せては返す波の音。名刹の庭園を流れる、か細い流れの微かな糸が絡まるような水の音。しとしと降る雨の音。水の音を聴いていると、水の冷気のようなものが身体の周りに忍び寄ってくる様な気がして、なにか心の中のもやもやが洗われ、聴くうちに心が救われるような気がするのであった。
孝雄は煙草に火をつけた。紫煙が緩やかに川風に運ばれて下流の方へと押し流され、やがて暗闇の中に吸い込まれていった。玉手橋の下流、橋から北の方を望むと、水銀灯の病的なまでの蒼白の明かりに照らしだされた新大和橋が、暗闇の中で煌々と浮かび上がっている。人との付き合いが下手で、酒を飲んでは人と喧嘩ばかりしていた父が朝夕、勤め先の鉄工所に通うために渡っていた橋であった。給料日にはあの橋の柏原側のたもとで飲み屋の主人達がいつも父の帰りを待っていた。
母が父と別れる決心をしたのもあの橋の上だった。気の弱さを酒を飲むことで紛らわせていた父はいつも母を殴り、子供である孝雄や由貴を殴った。孝雄や幼い妹の由貴が父を止めようとして反対に突き飛ばされ、足蹴にされた。あの時の母の泣き叫ぶ声がいまでも孝雄の鼓膜の奥にこびり付いて消えないでいる。父は母の隠してあった、なけなしの金を手に橋を渡って行った。橋の上に残された母は口や足から血の滲んだ孝雄らの手を引き、あの橋の上から、涙の溢れる眼で、いつまでも川面を眺めていたのだ。あの時、確かに母は死のうとしていた。橋の上から身を投げようとしていた。それが証拠に何度も何度も強く孝雄の手を引っ張った。幸い近所の人が騒ぎに気づいて駆けつけてくれたお陰で孝雄達は事なきを得た。
母はその後、孝雄達を父から引き取ることもできず、幸せになろうとして再婚をしたが、それから数年後には病気で亡くなった。父も孝雄が夜間の大学に通っていた頃、飲み屋の売上げを盗んでそのまま姿をくらまし、いまだに行方が分からないのであった。
玉手橋を渡り、右手の水道局の角を曲がると遠くに家の明かりが見えた。この時間にもなると人の往来はない。ただ自動車だけが騒がしく行き交っている。
五年前、典子の病気のことがあって、結婚当初から住んでいた八尾の家を売り、ここで売り出し中だった新築住宅に移り住んだ。ここにはもともと土地勘があったし、それに価格が手頃なことと、典子の実家のある国分にも、小学校にも近く、閑静な住宅地という周辺の環境が典子の病気にはよいだろうということで決めた。頭金は前の家の売却益を充てることができた。おかげで月々のローン負担額はほとんど変わらなかった。
家の前には義父の車が停まっていた。典子の実家は国分で祖父の代から水道工事業を営んでいた。典子の一番上の兄が家業を継いでいる。国分の典子の実家から玉手町の孝雄の家まで、玉手山を越えずに片山町を迂回すると自転車でわずか五分ほどの距離であった。孝雄が居間の襖を開けると、義父母と優がテレビを見ていた。
「ご飯まだやろ。寿司取ったんや。あんたの分、台所に置いたるさかい、どないする? こっちで食べるか、お茶の用意したげるわ」
と義母が言って立ち上がった。
優はドラマに夢中で孝雄を見ようともしなかった。
「薬のせいか、今よう寝てる。今日は朝から調子が良かったんや。国分まで一緒に買い物に出たんやで。もうどこも悪い事あらへん。普通や。心配せんでもええんとちゃうか。お腹空いてるやろ、はよ寿司食べたらええ」
義父が横から言った。この義父には結婚前にひどく脅かされた。「どうやら典子は君のことが好きらしい。そばで見てたらわかるんや、親やさかいな。わしにとったら典子はかわいい一人娘や。親馬鹿や言うて笑われるかもしらんが、可愛くて可愛くてしゃあないんや。男の子二人おるけどあいつらとは全然違う。気になるんや。典子のことが気になるんや。そない言うて、わしは典子が決めた男までケチつけるほど、わからず屋でも勝手でもアホでもない。好きな男と一緒になるのが典子の一番の幸せやさかいな。悪いけどあんたとこの家のことも調べさせてもろうた。まあ、結婚するんは父親やないんやから・・・、それにあんたはまじめそうやし。でもな、典子との結婚考えてへんねんやったら、分かってるやろ。・・・別に女でもいて、最後に典子泣かすんやったら、これ以上つき合うの止めたってくれへんか」とすごまれた。
服を着替えてくると言って、孝雄は典子が寝ている奥の部屋の襖をそっと開けると中をのぞいた。脱ぎ捨てた服がそのまま散らかっていた。典子は静かな寝息をたてていた。
結局、優が寝た十時過ぎまで義父母はいた。
夜中に典子は目を覚ました。
「いま何時?」典子が聞いた。
典子には少し近視と乱視があって柱時計の針が見えにくい。
「一時過ぎや」
「ふーん・・・」
しばらく考え事でもする様子でじっとしていた典子が急に吹っ切れたようにしゃべりだした。
「夢見てたんや。長いこと見とったわ。あんな長いあいだ見たのん初めてや」
「どんな夢やった?」孝雄は言った。
「孝ちゃんの夢や」
典子の温かい手が孝雄の手を探して伸びてき、孝雄の指に指を絡ませた。
「俺のか?・・・どんな夢やった、おもしろい夢か」
「結婚前の夢や。孝ちゃんと結婚する前の夢や」
「うれしいな。えらい若い頃のこと、思う出してくれて。夢の中でもハンサムやったやろ」
孝雄は努めて明るい声で言った。
「ううん・・・せやけど顔は一回も出てけえへんかったんや、最初から最後まで」
「そうか、そらえらい残念やったな、絶世の美男子見られんで」
孝雄がそう言うと典子が笑い、つられて孝雄も笑った。
「それでどんな夢やったんや?」
「なんや見てたはずやのに、起きて、孝ちゃんと喋ってたら忘れてしもうたわ。頼りない夢や」
「まあ、夢言うたらそんなもんや。ええ夢やったらええがな」
「そうやな」
それから急に喉が乾いたと言って典子は台所へと立った。孝雄は缶ビールを頼んだ。缶ビールとグラス一個持ってきた。グラスは少し飲みたいという、彼女の意思表示だ。典子は少しだが飲めた。孝雄は缶ビールのピンをはね上げ、典子のグラスに半分ほど注いだ。ビールはよく冷えていた。ぐっすり寝たのがよかったのか、典子の眼も声も普段と変わらなかった。
「・・・なあ、聞いてくれる。前に孝ちゃんが川の瀬の音が好きなんや、て早紀子さんに話した事があったんや。そしたら彼女が真顔で「孝雄さんの言うことが何となく分かるわ」って言わはったことがあったんや。私にはやかましい騒音や雑音ぐらいにしか思われへんのに・・・。なんでやろな、鈍感なんかな?」
「そんなことない。そんなん、もともと意味なんかあらへんものや。意味付けしても仕方のないことや。好きなだけなんやから」
「そうやろか」
その二、三日後の夕方、孝雄は営業所の新谷を酒席に誘った。先日、若い松下義彦が同僚とちょっとした事で諍いをし、そのことで会社を辞めると駄々をこねた松下を新谷が説得してくれたのだ。その件についての詳しい経緯を知りたいということもあったが、それは口実で、実は営業所の生き字引のような新谷と一度、酒を酌み交わしたいと常日頃思っていたのだ。
行きつけの店があると言う新谷に従って、駅近くの「新久」という暖簾の掛かった居酒屋に入った。六十過ぎの、化粧っ気のない頬だけが妙に赤い女将が、新谷とは二十年来の馴染みなのだと自分の方から挨拶した。仕事で遅くならない限り、必ず寄っては一杯ひっかけて帰るらしい。昔と違って新谷の酒量は最近落ちたという。どうやらこの店は営業所の男子社員の溜まり場でもあるらしく、時々は美子や信子達もこの店に立ち寄るらしかった。
松下の件は簡単に終わり、顧客のいろんな話があって最後には話が秋の旅行にまで及んだ。
「秋の旅行の件ですねんけど、白浜に決まりましたやろ」
「ああ、なんかそうらしい。佐藤君言うてたな、そんな事」
「わし、白浜にはちょっと思い出があって行くの嫌ですねん。毎年参加させてもろうとったんやが、今年は欠席させてもらいますわ。勝手言うてすんません」
ぺこりと新谷は頭を下げた。
「おっちゃん、なんでや。みんなおっちゃん来るの楽しみにしてるのに」
新谷は昔、白浜に海水浴に行って自分の不注意から当時五歳になったばかりの長男を波にさらわれ、死なせたのだ。警察や地元の漁師たちが何日も遺体を探してくれたが見つからなかったそうだ。
「・・・未だにどこかの海中であいつがさまようてるねんやろな、と思うたら気が狂うみたいにたまらんようになるんですわ。もうとうの昔の話やのに、もう忘れなあかん話やのに・・・。白浜に限らず、今でも海のそばで波の音聞きますやろ。そしたらもうあかんのですわ。「早よう引き上げてえな、助けてえな」て耳元で息子の声がまとわりついてきて離れへん。波間に引き込まれた息子の姿が目の前に浮かびあがってきますねん。そうなったらもう気がふさいでしもうて、自分でも止めようおませんのや。まして白浜ですやろ。酒でも飲んで暴れるような事があったらどないしょうと思いますねん。そんなんやから行って、みんなに迷惑かけとうないんですわ。この話は所長だけの胸に仕舞っておいといてほしいんですわ、頼みます」
休みは大概、奥さんといろんな寺社を回るそうだ。すでに何度も西国を巡り、納経と集印を重ねているらしい。来年定年したら今度は奥さんと二人で乗り物に頼らず、西国三十三カ所や四国八十八カ所を歩いて巡礼するのが夢なのだと言った。
「・・・観音さんやお大師さんに海に流されたままの息子を救うてもらうんですわ。わしら死ぬまでこれが仕事ですねん。まだまだ死ぬまで長そうですわ・・・これからですわ・・」
駅での別れ際、酔いが醒め、いつもの新谷に戻ると、笑いながら孝雄にそう言った。水の音にやすらぎを覚える男がいれば、片方で気狂うほど悲しくなる男もいることを、その時孝雄は知った。
孝雄がまだ幼かった頃、母が家を出た。そして三年後、孝雄や妹を捨てて別の男と再婚した。それを知った日、孝雄は自分も母のように、どこかへ逃げたいと思った。それで幼い妹の手を引くと、安堂町から大和川の河川敷に出た。酒飲みで遊び人だった父が、臭い息を吐きながら、孝雄達を探しに来るまで、再婚した母の元へも行けず、結局どこへも行く当てもなくて、いつまでも暗く静かな川面を、二人で瀬の切なく悲しい音色を聴き続けていた遠い昔の日のことを思いだし、孝雄はふいに胸が熱くなった。
下りホームに河内長野行きの電車が先に入ってきた。
「お先に失礼します。今夜は色々ありが・・・」
と新谷は向かいのホームに立つ孝雄に頭を下げた。そしてドアが閉まり、走り出す電車の中から新谷はさらにもう一度、深々と孝雄に頭を下げた。
典子の具合がよくなったので、久しぶりにベーヤンを見舞いに行くことになった。この頃ほとんど乗らなくなった車を走らせ、大阪市内に向かった。
ベーヤンは本名渡辺弘幸という。野球部の練習中、後逸する度に「わたなべー!」とノッカーから怒鳴られていたのが、いつのまにか省略されて「べー!」になり、その「べー!」を愛情と親しみを込めていつの間にかみんなが「ベーヤン」と呼ぶようになった。
典子は朝からベーヤンや早紀子に会えるというので機嫌が良く、久しぶりに血色もよかった。ベーヤンが怪我するまでは早紀子が典子の良き理解者であった。早紀子は車に乗れるのでよく典子を誘い、買い物に連れていってくれたり、気晴らしにとドライブに誘ってくれたりした。典子の病気がこれまであまり重くならなかったのは早紀子のお陰であったと孝雄は感謝している。ベーヤン夫婦には子供がなく、優を大事にしてくれ、優もそんなベーヤン達によくなついていた。ベーヤンが事故に遭い、大怪我をするまで、暇さえあれば久宝寺の自宅から車でやって来て、休日も出勤であまり構ってやれない父親の孝雄に代わって、石川の河川敷で優のキャッチボールの相手をしてくれていた。
ベーヤンは野球入学を薦めてくれる大学の誘いを蹴り、一浪の末に工業大学の土木科に入った。高校時代は野球ばかりやっていたような印象しかなかったが、もともとよくできる男であった。そして卒業後は中堅のゼネコンに入っていた。
事故の日、今から思うとおかしな事があった。普段会社には電話をしてこないベーヤンが孝雄の留守の時に電話をしてきたのであった。珍しいこともあるな、孝雄はそう思った。なんだろう。気になったが手が空かず、夜にでも家の方に電話を入れるつもりでいた。ところがその日の夕方、ベーヤン達が手がけていた下水道のトンネルが落ちるという大事故があり、ベーヤンの他、何人かが生き埋めになった。ベーヤンはまもなく救出され、知らせを受けて孝雄が駆けつけた時はすでに病院に運ばれた後だった。険相とした事故現場からは遺体で発見された作業員の家族の泣き崩れる姿が見受けられた。診察の結果、数カ所の骨のほかに首の骨まで折れていることがわかり、多分ベーヤンも助からないだろうと医師が匙を投げた。
だが奇跡的に生命を取り止めた。ベーヤンの病院は上本町にあった。事故当初は工事現場近くの救急病院に入っていたが、脳外科の専門の方でと、こちらに移されてきた。面会時間は午後二時から五時までで、それ以外は入室禁止であった。重病人が多いせいか、規則は厳しかった。完全看護で家族の付き添いは原則として認められてはいない。
町の中なのにこの辺りだけ妙にひっそりとしている。一本の楠の大樹が病院の正面玄関の脇で、仁王尊のような格好で立ち茂っている。いつ来ても静かなところであった。車の大通りを少し入っただけで、こんなに静寂なのが不思議であった。都会のオアシスとはこういう処のことを指すのではないか、と孝雄は思った。車を所定の駐車場に停め、通用門の扉を開けて中に入った。長い廊下を右に左にと歩き、ようやくのことで病室にたどり着いた。
孝雄は軽くドアを叩いたが中から返事がなかった。おもむろにドアのノブを捻り、ゆっくりとドアを開けた。ベット横の椅子には早紀子が腰を掛け、何をしているのか俯いていた。肩を丸めた彼女の背中に孝雄が声をかけた。早紀子は振り返って孝雄達を認めると、雨雲の隙間からパッと陽が射したように頬が緩み、粘土のように艶のなく、沈みきった早紀子の顔にかすかな笑みが浮かび、続けて安堵したような表情をした。
「ご無沙汰しています・・・」典子が言葉を添えた。
「遠いところをわざわざ・・・」
「どうですのん、容体の方は?」典子が訊ねた。
「変わりありません・・・」
早紀子はまた生気ない表情に戻って首を横に振った。
事故からすでに二年が経っていた。聴力と視力がわずかばかり回復したそうだが、いまだに早紀子のことも何もわからない状態であった。ベーヤンの黒い眼の玉がときおり瞬きと動きをまじえ、神経質そうに声のする孝雄達の方を見るのだが、肝心の眼の玉からは何も伝わってはこなかった。それはまるでビー玉のように無機質で、どこか模造品のようであった。
早紀子の眼が時々忙しげに動いて、典子の後ろに立っている孝雄に何かを伝えようとしている。孝雄に何か言いたいことがあるらしい。孝雄はわかったとでも言うように微かに頷いた。
しばらく話をした後、言葉が途切れたのを契機に、お茶でも飲みませんかと、早紀子は孝雄達を部屋から連れ出し、中央に大きな池のある中庭が望める、食堂も兼ねた広い喫茶室に誘った。
面会に訪れた人達があちらこちらのテーブルでパジャマ姿の入院患者を相手に談笑していた。優は自分から配慮して別のテーブルに腰をかけると、家を出る時に持ってきたゲームボーイをいじりだした。
典子が化粧室に立った間に、早紀子は、どうしたらいいのか、迷っているんです、と孝雄に苦しい胸の内を告白した。先日、早紀子からの電話で、ベーヤンの両親から離婚話が出ていることを聞かされていた。ただ典子にはこの話は聞かせないでくれ、と孝雄は頼んであった。神経が過敏で、色々考えたり、気を使うと一番よくない典子の病気の事があったからだ。
「どうしたらいいのか、自分でもよく分からないんです・・・」
「・・・・・」
「もう二年になるもんな」
「・・・・・」
早紀子は黙って頷いた。化粧っ気のなく、心労でやつれた顔がよけいに哀れを誘った。
「ベーヤンの両親からはその後何か話が・・・」
「いいえ、あれ以来はまだ・・・」
「金沢の君のご両親は?」
「頷くばかりで何も。ただ後悔しないようにと・・・」
「そうですか、辛いやろうな、どちらも。言う方も聞く方も」
早紀子にとってもまんざら突飛な話でもなかったはずだ。離婚話というのはいまの状況から考えれば十分予測されたことであった。これから先、まだまだ長い病闘生活が待っていた。嫁や妻とはいえ、かすがいになる子供もいない夫婦であった。その片方が病に倒れ、回復の見込みもない植物人間では、残された方の心労や心情を考えると誰だって同情したくもなる。ただ、十五年も一つ屋根の下で暮らしながら、いくら相手の親の申し出だからと言って、不具者の伴侶を見限って、さっさと離婚をしてしまうというのは、あまりにも自分が無責任のようで、卑怯すぎるのではないか、と早紀子は考えてしまうのであった。
しかし孝雄はベーヤンがもし言葉を喋れたとしたら、多分もっと早く、自分から別れ話を持ち出していただろうと思った。子供もいないのに、いくら困ったときに助け合うのが夫婦だとはいえ、今のままでは早紀子が可哀想すぎる、とベーヤンだったら言うだろう。だから早紀子の選択は間違いではないはずだと孝雄は考えた。
「・・・・・」
「近いうちに金沢から両親が来阪するんです」
「そう・・・長い付き合いだったよな、早紀子さんとは」
孝雄はそう言って、離婚という言葉を避けて自分としての考えを述べたつもりであった。
「・・・・・」
近鉄道明寺線は道明寺駅と大和川を挟んでJRの柏原駅とを単線で結ぶ短いバイパス線だ。その間にはわずか柏原南口駅という駅しかない。二両編成の赤銅色の車両は一時間に四本しか運行しない。しかも時間にしてわずか数分の距離を楽しむかのようにのんびりと走っている。そんな道明寺線の車両から下りてきた美子と出くわしたのは、梅雨入りして、しばらく経った雨の朝のことであった。
出かける前、堺にいる叔父から、行方不明の父のことで電話があり、孝雄の心は複雑にかき乱れた。短い電話だったがその為にいつも乗る電車を踏切で見送る羽目になった。
下りの二番線で次発を待っていると、背後の一番線に道明寺線の車両がゆっくりと入ってきた。二番線にはすでに連絡待ちの橿原神宮行きが入っていた。ドアが開き、吐き出される人の群の中に美子がいた。彼女のあでやかな黄色の傘が孝雄の目を引いた。
「所長!おはようございます」
美子の方から声をかけてきた。
「やあ、おはよう」
「いつも早いのに乗ったはるんと違いました?乗り遅れはったんですか」
「ああ、早い言うても一本早いやつだけや。ちょっとのことで乗り遅れてしもうたんや」
そう言うと孝雄は無意識に青が基調の斜縞模様のネクタイに手をやった。典子が先日、気晴らしにと、母親と二人で宝塚の清荒神まで出かけた折り、帰りに梅田の百貨店に立ち寄ったついでに、一目見て柄が気に入ったからと買ってきてくれたネクタイだった。
「ええネクタイしたはるわ、よう似合うたはる。奥さんの見立てですねやろ。洒落てるわ」
「おいおい、あんまり朝から年寄りおだてんといてくれへんか、なにも出えへんで」
「なに言うたはりますのん。所長は年寄りと違いますやんか」
孝雄は今年で四十二になる。二十五の時、高校時代から親しくしていた典子と結婚した。二度の流産を経験し、なかなか子供に恵まれなかった二人に、結婚七年目にして待望の男の子が生まれた。
「・・・それはそうと優はどんな具合かな? 足手まといになってるんやったら遠慮せんと言うてや・・・」
「足手まといやなんて、そんな言い方したったら可哀想やわ。まだ入部したばっかりで練習に慣れへんところもあるけど、素質ありそうやて兄が言うてましたわ」
「一人っ子やからわがままやと思う。世話かけるけど頼むわ」
けたたましく発射のブザーが鳴り、時間待ちしていた二番線の橿原神宮行きが発車した。それと入れ替わりに今度は向かいの上り三番線のホームに阿倍野行きが滑り込んできた。ふいに大粒の雨が音をたてて降ってきた。雨を避けて駅の構内へ駆け込む、コツコツというハイヒールの踵が地面を叩く乾いたような音が高く響いた。風が時折強く吹き、雨の飛沫が横殴りをして、そんなに広くないホームの上を洗い、孝雄達のスラックスの裾や靴を濡らした。
美子は短大の保育科を出て私立の幼稚園に勤めていたが、何かの理由があって辞め、うちの会社に入ってきた。入社当初は布施にある大阪営業所勤務であったが、二年前に南大阪営業所に転配されてきた。美子の家は道明寺線の柏原南口駅にほど近い柏原市古町というところで、今の営業所の方が断然、通勤に便利であった。
ようやく河内長野行きの電車が二番ホームに滑り込んだ。停車したドアの中に五十嵐信子の顔があった。孝雄に気づいて、にこっと会釈した。肩まである長い髪をマロン色に染め、どこか日本人離れした彫りの深い顔をしている信子は文句なしにミス営業所であった。初対面から孝雄は美子より信子の方が管理職として悩まされそうな気がした。現に所内の男子社員の何人かが信子に熱い想いを寄せ、若い男子社員の間では不穏な雰囲気が漂っていた。
昼になると重そうな梅雨空の雲の切れ間から陽が洩れてきた。窓から雲が東から北へと飛ぶように流れているのが見えた。外に出る仕事なので、朝夕以外はほとんどの男子社員が不在で、主のいない机がほとんどで、事務所はがらんとしていた。
電話の少ない日であった。たまにこういう日があった。こういうときは不安にもなるし、クレームもなく順調なんだと安堵もする。いつもはどこかの机の電話が鳴っていて、なんとなくばたばた一日時間が経過するのが常であった。美子を含めて五人いる女子社員たちも、朝から孝雄が言いつけた書類の整理が済むと、後はする事がなく、あくびを噛み殺したりして退屈そうであった。
夕刻、帰宅を急ぐ若い所員を尻目に孝雄は流れてきたばかりの数枚のファックス紙に目を落としていた。支社が手に入れたライバル社の極秘物の大口顧客名簿と品番別の値引き及びリース限度額がびっしり書きこまれてあった。品質にさして優劣がない以上、メンテと共に価格は今のように不景気な時代には何より説得力がある。食い入るように見ている孝雄のデスクの前にいつのまにか美子が立っていた。
「所長もコーヒー煎れましょか?」と美子は言った。
「ああ、萩原君か。まだ帰らへんのか。それやったら頼むわ」
取付やら修理で外に出ている者がまだ何人か帰っていなかった。現場の責任者として、彼らより先に帰るわけには心情的に許されなかった。
「佐藤君。さっき流れてきたやつや。これ見たらコピーしといてくれへんかな。営業の数だけでええ。明日配るよって」
と孝雄は先ほどのファックス紙を手でひらひらさせながら立ちあがると、営業の佐藤に言った。
いつの間にか残っていた者も帰り、孝雄一人になった。車の明かりがぐるりと窓に差し込んだので、もしやと孝雄は窓の外の駐車場に目をやったが他の車であった。あと一台帰ってこない。
腕時計を見た。六時半であった。それから受話器を耳にあて、家の電話番号をプッシュした。毎日の家事や食べる事の他に、典子の話し相手と監視を兼ねて、国分から来てくれている義母が電話に出た。
「もしもし。ああ、お義母さんですか。典子どないしてます」
「元気にしてるわ。本人とかわろか?」
「いえ。それやったらええですわ・・・」
「明日の診察はお父さんが車で病院まで連れて行ってくれるそうや」
と義母は付け足した。
「いつも世話かけてすみません。きのう、久しぶりにベーヤン見舞いに行ってきたんですわ」
「そうらしいな、行ってきたんやて。朝、典子が言うてたわ。ベーヤンもう回復の見込みないらしいそうやな。そうなったら可哀想やな早紀子さんも・・・そのことで典子が心配して、かなり考え込んでるみたいや、また」
「典子が考えても、どうしょうもないのに」
「そうや。私もそない言うたんやけどな」
次の日の朝、布団から這い出して来た典子は焦点の合わない視線を孝雄に向けた。
「大丈夫か」
孝雄は典子の顔をのぞき込んだ。昨日の夕方から様子が変になっていた。帰宅の支度をしているところへ義母から営業所に電話があった。どうにもとんちんかんな受け答えをする典子に帰宅した孝雄も驚いた。悪化したときに飲ませるようにと渡された薬を飲ませ、早く床につかせた。
「・・・・・」
典子はパジャマ姿のまま、だらりとしていた。
「お前がしっかりせんと、どないするの。優も可哀想やないの」
台所から義母が近寄って来て励ました。
「そうや、典子はあんまり人のこと気にしすぎるんや。もっと大きな心持たんと・・・」と孝雄は言った。典子は人が自分の悪口を言っていると言ってきかなかった。
「・・・・・」
典子は曖昧に頷くだけであった。服用した薬のせいだろうか、どこか眠た気で正気がなく、ふわふわしているようで頼りない。この薬はあまり飲みすぎると身体には良くない。
出勤する時間になった孝雄は義母に典子のことを頼んで家を出た。義父の車で病院に行く手筈になっていた。心配するほどのこともないだろう。義母の言うように疲れが溜まっていたのに違いない。疲れが取れればまた良くなるだろう。孝雄は玉手橋の中程まで渡った時、そんなことを考えながら家に残った典子のことが急に気になって振り返った。そしてそこからは見えるはずのない自分の家が、典子の顔が、ひょっとしたら見えるのではないか、と孝雄は思った。
昼前に義母が電話をかけてきた。
「いままだ病院やねん。いつもの先生に診てもろうたとこや」
「それでどないでした?」
「うーん。いつもよりひどいらしいわ。・・・今は薬で抑えてるけどあんまり飲んでもええことないて言うたはる。しばらくは目を離されへんらしい。発作的に何をするか分かれへんから気をつけなあかんそうや。どうしても家に帰らなあかんのやったら無理にとは言わへんけど、しばらく入院してしっかり治療したらどうやって、言うたはるねん。どないする入院させるか。入院するんやったら今日からでもどうやて言うてくれたはるんやけど・・・」
「家におっても何もすることてあれへんし。入院する方が典子のためにも、ええかも知れませんな」
「入院させよか・・どない?」
「・・入院させますわ。長いことやおませんやろ」
「うん先生もそない言うたはったわ。・・・そうか、そしたら先生に言うてくるわ。ほな、またあとで」
ベーヤンの見舞いから少しおかしくなりだしていた。しきりにベーヤンや早紀子のことを口にするようになった。寝たきりのベーヤンを見たことが典子には刺激が強すぎたのかもしれなかった。
孝雄は後のことを木村という課長補佐に任せ、近鉄電車で阿倍野橋まで出、そこから天王寺区にある病院までタクシーを飛ばした。
外来脇の受付で病室を聞いた。北館の三階五号室であった。三階は全て個室であった。受付横の、灯の足りない暗く長い廊下を歩き、突き当たり左のエレベータの前で待っていると、靴音がして、義父が廊下奥の売店の方から歩いてきた。
「来たってくれたんか。早かったな。仕事忙しいんと違うんか」
義父は手に缶ジュースが数本入った白いポリ袋を提げていた。
「連休前ですよって、点検や修理の方はいそがしうしてますわ」
わかった、とでも言うように義父は頷いた。
「・・・典子どないしてます?」
「ああ、いまのところ落ちついてるわ。心配せんでもええ。先生もすぐ帰れるやろ、て言うたはる」
「そうですか。ほんまに大丈夫なんですやろか」
「なに言うてるんや。あんたがそんな気やったら、病人さんも余計悪うなってしまうがな」
エレベータが降下して来、着地のランプが点くと、ドアがガタガタ音をたてながら左右に開いた。ドアが開くなり、白衣を来た大柄な医師が金属製の器具を片方の手でぶらぶらさせながら出てきた。その後ろから看護婦がレントゲンらしい大きな封筒を胸に抱きしめて出てきた。入れ替わりに孝雄達が乗り込んだ。他に誰も乗る者はいなかった。
孝雄が訊ねもしないのに、
「さっき喉乾いた言うから・・・」
と義父は片手で提げている袋を少し持ち上げた。
エレベータを降り、義父と並んで廊下を歩いた。とりあえず落ちつくまで個室がいいのでは、と医師の進言があったらしい。途中、患者らしいパジャマ姿の初老の婦人とすれ違った。孝雄は無言で頭を下げると、相手も軽く頭を下げた。
典子の部屋はドアが開けられ、代わりに赤い花柄模様のカーテンが掛かっていた。義父はさっさと入って行ったが、病室の入り口で孝雄はなぜか躊躇した。畏怖の念が浮かび、急に怖くなったのだ。典子がいつもの典子でなくなっているような気がして、もう一度入り口に架かっている札を確認してから中に入った。
「孝ちゃんやで、典子」
と義母が言った。入り口に背を向けていた典子がその声で向きを変えた。朝より顔色がまた悪くなっていた。
「・・・・」
何も言わず典子は孝雄から顔を背けた。
その時看護婦がやって来て孝雄を廊下に呼んだ。担当医から詳しい話があるらしかった。
孝雄は詰所のドアを開けた。呼びに来てくれた看護婦だけで他には誰もいなかった。担当医はカルテを手にして机に座っていた担当医は孝雄に気付くとくるりを椅子を反転させた。
「いつもお世話になります」孝雄は丁寧に頭を下げた。
「どうぞ」
担当医は孝雄に椅子を差し出した。孝雄は担当医と向かい合う形に用意された丸い回転椅子に腰をかけた。
「いいえ、どうも。ええっと、二月からだから、少し長いこと順調だったのにねえ・・・」
「そうなんですよ。本人もずいぶん気をよくして直ったんじゃないかって喜んでいたんです」
典子には精神分裂病のように妄想や幻覚が起こっている様子であった。さらに現実と非現実とが区別できなくなっているようでもあった。いずれにしても心理的な病気で、本人も回りにいる人間も本人に不安感や不安定を感じさせるような状態をできるだけ作り出さないようしなければならない。現在必要なときだけ飲んでいる緩和精神安定剤も、症状を押さえるという一時的な効果しかない。
「広く心の病気というのはいつも申しますように、やっかいなものでして、内科や外科のようにはっきり治癒が確認できないという困った部分があるのです。必ず効くという特効薬もまだありませんしね・・・・・」
「直るんでしょうか?」
「ええ直りますよ、もちろんです」
しばらく症状が落ち着くまでの間、孝雄は会社が終わるとそのまま病院に直行し、典子の病室で寝泊まりをすることにした。優は国分の義父の所でしばらく世話になることに決まった。学校も少しは遠くなったが、歩いて通えないほどの距離ではなかった。
孝雄は電車に阿倍野へ出、そこから環状線に乗った。JR桃谷で下り、上町台地の病院に通ずる、だらだらとした坂を上っていった。義父母達は昼夜を問わず交代で病室に詰めていた。夜間の面会時間はとうに過ぎていた。付き添いは原則として駄目であったが、症状のことがあって担当医から特別に許可を得ていた。
孝雄が部屋に入ると、義母が入れ替わるように、近くのスーパーに夜食でも、と買い物に行った。
典子の目の下にうっすらと隈が出来ていた。夜、寝つけないからだと本人は言うが、一日中ベットで横になり、投薬のせいか、よく寝ていた。なにをするにも積極性がなく、自分でも億劫なのだと典子は言った。
「浮気してもええねんよ、孝ちゃん。さみしいやろ、ここでは慰めたる事もでけへんもんな・・・」
「アホなこと言うたらあかん。そんなん出来るわけないやろ」
「そやけど孝ちゃん昔から気が多かったやんか。高校の時」
おかしなことを典子は言った。幻覚やら妄想症状が出ている様子であった。語調も砕けるように頼りない。
「そんなん知らんわ」
「そんなことないわ。早紀子さんとも仲よかったやないの」
早紀子は高校の同窓ではないし、ベーヤンと結婚するまで面識さえなかった。
「この間も夢見た言うたやろ。それがきのうまた同じ夢見たんや」
いつのことや、と孝雄は首を傾げた。
「また孝雄の夢見たんや」
「こんどはどんな夢や?」
「・・・ほんまのこと言うから怒らんといてや。あんな、孝雄が早紀子さんと浮気してる夢見たんや。早紀子さんはほんまにええ人やし、あの人やったらかまへんよ、浮気しても。考えたら、あの人もベーヤンがあんな事になってかわいそうな人やもん。孝雄も長い間ないから、かわいそうやもんな」
「そんなこと言うなって・・・・」
「ほんまのこと言うたら、夢違うんかもしれん。夢やない気がするねん。なんや考えたら考えるほどそんな気がするねん。今思うたんやけど、本当は早紀子さんと孝雄は一緒になる運命やったんかもしれへんわ。それを私とベーヤンが二人の邪魔したんで、今ごろになって縁結びの神さんそれに気づいて、えらい怒らはって罰当てはったったんと違うやろか。私とベーヤンに・・・」
「考え過ぎや。そんなことあらへんがな・・・」
「どこで間違えたんやろな・・・」
「なにを間違えたんや?」
「そうやろ。もとはと言えば、孝雄と早紀子さんが結婚すれば一番よかったんや。・・・わたしと、金沢から来た早紀子が短大で知り合って・・・、私とベーヤンと孝雄は高校時代の友達やったんや。もう時効やから怒らんといてや、孝ちゃん。ほんまの話、私は最初、孝雄よりベーヤンが好きやったんや。そやかて孝雄はなんか暗かったもん。それが四人で仲良く遊んでいるうちに捻れておかしな事になってしもうたんや。つまり捻れてしもうたんや。・・・早紀子さんも本当はベーヤンより孝雄が好きやったんや。孝雄も早紀子さんのこと好きやったやろ。それがどういうわけか、早紀子さんはベーヤンと婚約してしもうた。わたしが今でもわからへんのは、なんで孝雄が早紀子さんを選べへんかったんかということやねん・・・・・」
典子に話を聞きながら孝雄は鳩尾のあたりからガタガタと震えが沸きあがってきた。こんな典子を見たのは初めてだった。孝雄はベット脇の丸いベルを押し、詰め所の看護婦を呼んだ。
典子のことが気になり、それから数日は気が散って仕事にも熱が入らなかったが、一週間ほど経って、病院での添い寝にも孝雄がようやく慣れはじめると、それに歩調をあわせるかのように、一時はどうなるのかと心配した典子も徐々に目線や言葉尻がはっきりしはじめた。
安堵感が漂いはじめた朝のことであった。定時より少し遅れて会社に着くと木村が駆け寄ってきた。新谷の家から電話があって、出社するときの新谷の様子が変でどうにも気になるから、会社に着いたら電話をくれないかという新谷の妻からの話を孝雄に告げた。
「それで新谷さんは?」
「まだ出社してないんですわ。病気でも休んだことのないあの人にしたら珍しいことです」
「家の方には電話をしたんか?」
「はい。まだ出社してないて言うときました。・・・悪かったですかな、いらんこと言うて・・・」
「いや、そんなことない」
「新谷はんの今日の予定ですねんけど、朝から浅野君と組んで冷凍庫の取付することになってますねん。もし来んようなことがあったら、変わりの者派遣せんとあきませんし、・・困ってるんですわ」
「それやったら代わりの者を派遣してくれ。来たとしても仕事はささんほうがええやろ」
「・・・何かご存じなんですか、所長は?」
「いや、何も知らん。ただそない思うただけや・・・」
その時、孝雄の耳に玉手橋で聞く三段堰の水音が幻聴となって聞こえてきた。水音を聞くだけで取り返しのつかない過失に責められ、苦しくなるという新谷のほうが人間らしいのではないか。ならば水音に心休まる自分という人間は一体何者なのだという気がした。
新谷が和歌山の白浜で入水自殺をしたという知らせがあったのは翌日の朝のことであった。遺書が現場と家にあった。
通夜で小さく蹲るようにして座る新谷の妻の憔悴しきった姿が人の哀れというものを訴え、涙を誘った。
焼香を済ませた孝雄は祭壇に掲げられた新谷の写真を正視した。口元を少しへの字に曲げ、どこか童子のようにはにかんだ新谷の顔は、営業所で冗談を言ってみんなを笑わせるあの陽気な新谷ではなく、やれやれこれで水の音にも苦しむことがなくなりましたわ、と言いたげで、孝雄には穏やかで安らかな顔のようにみえた。
新谷の葬儀のあってから初めての日曜日、孝雄は久しぶりに自宅の布団で朝を迎えた。その日は日曜日でフェニックスの紅白試合があって、優が出るかも知れないから孝雄に練習試合を見に来てくれとせがんだ。それで昨夜は義母が孝雄に代わって典子のそばについてくれた。
玉手橋の袂から少し北にグラウンドへ下る急な未舗装の砂利道がある。少しまとまった雨が降るとに川にもなる道であった。孝雄は滑らないようにと腰を落とし、その坂道を下りながら優の姿を探していた。ランニングを終え、すでにグラウンドいっぱいに広がってキャッチボールをしている最中であった。孝雄はレフトの隅の方にいる優の姿を見つけた。背の高さの割に身体のどこにも筋肉と呼べるような肉がなく、腰回りもまだまだ細くて見るからに頼りなさそうであった。
「やあ、おはようございます」
父兄の一人が孝雄に挨拶をした。いつも会う顔であった。子供が六年生で確かレギュラーだった。
「どうですか、肩の具合は?」
「まあまあですわ。昨日の夜一時間ほどマッサージしてやったからだいぶ筋肉ほぐれてると思う。まあ今日は頑張ってくれるやろ」
と傍らで別の父兄が誰かと話をしている。話しているのは控え投手の親であった。
「この間も途中まで好投してたのに、急に崩れてしもうたやろ」
「はい。まだまだ走り込みが足らんみたいで、スタミナもないみたいですな」
美子が近づいて来、孝雄のすぐ横を通り過ぎる時にわずかばかりの会釈をした。会社では少年野球の話は一切しない。他の者に分からない話はとかく変なやっかみや誤解を招くからだ。ここでも孝雄が美子の上司であることを知る者はいない。
優が入部してから二ヶ月ほど過ぎていた。休みの日は例外なく練習があった。優はずいぶんと日焼けし、水を得た魚のように生き生きと子供らしくなった。夜、バットの素振りも自分からすすんでするようにもなった。チームは春の地方大会を終え、夏の全国大会を目指しての最終調整に入っていた。
いつもどおりの練習メニューが終わると、子供達はバックネット横に集まり、監督やコーチを中央に囲んで輪になって腰を下ろした。彼らは監督やコーチの言葉一つ一つに相槌を打って返事をしていた。長いミーティングであった。選手一人一人に今日の自分に課せられた課題の再確認をしているようだ。
「それじゃ、始めるか」という監督のひときわ大きな声で、彼らは一斉に立ち上がると輪が散って二手に分かれた。
チームには小学三年生から入部出来る。総勢五十人程ではなかろうか。当然、チームの中心は五、六年生である。
やがて試合が始まった。優は三塁側のベンチの中からみんなと一緒に声を張り上げていた。見かけより頭が小さく、揃えた帽子が少し大きすぎたので、深く被ると帽子のつばが目線のすぐ上までくる。そのことに気づいた孝雄が先日、新聞紙を細長く折ると、帽子の内側の折り返しに挟んでやった。
フェニックスのエースは体躯はさほど大きくないが、筋肉質のがっちり型で、芯の強そうな、気持ちで投げるタイプだ。赤いジャージ姿の母親がいつも観戦に来ている。春の大会はこの投手の乱調もあって、チームも不本意な戦果に終わっていた。
ここ二、三年のJリーグブームのせいか、入部希望者が少なくなってきているらしい。それでもまだフェニックスはましな方で、よそのチームなどは新入部員が皆無のところもあるらしかった。
先にエースが投げ、控えチームが攻撃をした。エースの球はそれほど速くはないが、コントロールが良い。捕球の度にキャッチャーミットが心地よく鳴り響いた。控えチームの攻撃は三人で簡単に終わった。
今度は控え投手がマウンドに立った。ベーヤンと同じ左腕であった。少しサイド気味に投げるところもベーヤンと同じであった。腰回りがエースと違い、まだ細い。走り込みより体型のような気がした。投げるときに軸足が微妙にぶれる。その為に球威はエース以上にあるのだが、コントロールがもう一つ定まりにくい。コントロールは投手の命であり最大の武器にもなる。やはりエースになれないだけの欠点があった。
試合は点の取り合いになった。四回の裏、何気なく振り返って堤防を見上げると、白いカーディガン姿の女性と視線が合った。早紀子であるのはすぐにわかった。孝雄は手を振りながら頭を下げた。この前の話の結末を知らせに来たのだろう。多分離婚する事に決めたのだろう。孝雄はそう思った。見舞いの時に会って以来だからすでに一か月は経っていた。おそらく時期的にも金沢から両親が来阪し、もう話がついた頃かもしれなかった。
孝雄が下から「こっち、こっち」と手を振ると、早紀子はへっぴり腰で恐る恐る急な坂を下ってきた。
「先に家の方へ寄ったんですけど、誰もいる様子がないので、ひょっとしたらここかなって・・・」
「ええ、休みの朝はほとんどここですねん」
咄嗟に孝雄は嘘をついた。
「典子さんは?」そう言って早紀子は典子を探す素振りをした。
「ううん。ちょっと用事で実家に帰ってるんですわ・・・」
孝雄はまた嘘をついた。本当のことを言って早紀子に余計な心配をかけたくなかった。
「そうですか、残念だわ・・・」早紀子の声が急に沈んだ。
「・・・あの話のことですか?」
「はい・・・」
あたりを見回し、ここでは、というような早紀子の態度だったので、それじゃあ、と父兄の塊から外れ、誰もいない外野のフェンスの方へ孝雄と早紀子は歩きだした。
早紀子は事の経緯を孝雄に話した。
あれからすぐベーヤンの両親の方から、来阪した金沢の両親を交えて早紀子の今後の身の振り方について次のような提案があった。
弘幸の身体は残念だが、もう覚悟は出来てる。ほとんど回復も見込めそうもない。弘幸は確かに早紀子の夫に間違いはないが、しかしごらんのような身体だ。毎日弘幸の世話を焼いてくれているのには本当に頭が下がるし、感謝もしている。しかし五体満足の身体であってこその夫婦ではないのか。夫の世話をするのが妻の役目といってしまえばそれまでだが、先行きよくなるという希望もないのを知っていながら、このような状態で早紀子を弘幸のために、息子の嫁というだけで縛り付けておくのは弘幸の親としてなんとも辛い。それに早紀子の両親の心情を考えると、自分たちは申し訳なく肩身も狭い。弘幸は自業自得でこうなったわけでもないが、このままでは早紀子があまりにも可哀想すぎる、と舅と姑が泣いたという。
幸いというか、不幸というか二人の間には子供がない。早紀子の将来のためにも弘幸と別れた方がいいのではないか。まだ今なら再出発できる。弘幸のことは私たちが弘幸より先に亡くなる事があっても、次男に家督を継がせるという条件で話が出来ているとのことであった。だから早紀子が長男の嫁として、弘幸の妻としての責任や使命を考えてくれる必要はないから気持ちを楽にして欲しい。どんな人間にも死が訪れる。そのことは生きている者全てが避けて通れない、直視しなければならない真実だ。だから誰でもいつか別れの時が来る。早いか遅いか、それだけの違いでしかない。ただ人生は一度限りのものだ。かけがえのない人生を誰だって無駄にしたくもないし、またそれを強要する権利は誰にもない。弘幸のこれからの人生といえば、ベットの上で二度と起きあがることなく、死を待つだけだ。いやもう他人からみれば、死んでいるのと同じかも知れない。
すぐにとは言わないがよく考えて、遅くならないうちに、取り返しのつかないうちに返答して欲しい。いずれにせよ早紀子の幸せになるような結論を期待していると、そんなことを言ってくれたのだと早紀子は孝雄に打ち明けた。
聞きながら孝雄は自分が全く無力なのを痛感した。ベーヤンの為に、自分がどうしてやることも出来ないのが悔しかった。
あふれる涙を隠すためにグラウンドに眼をやると、美子の視線とかち合った。慌ただしくホームベースを指さした。優がバットとヘルメットを持ち、監督に何か言われて打席に入るところであった。入る前に二、三回、素振りをした。上体が揺れて振りは鈍い。もちろん試合では初めての打席であった。一塁と二塁にランナーがいた。
「早紀子さん、優が打つんや」
「ええっ?」
「あいつ、試合に出るのも、ああやって打席に立つのも初めてですねん。でもあの振りやったらあかん。まだまだや、たぶん三振しますわ」
ボールの次の二球目を強振したが優は空振りした。緊張のせいか身体も顔もこわばっている。三球目を振った瞬間にヘルメットが宙に飛んだ。身体全体が棒のように堅い。見かねたすかさず監督が優を呼んだ。ぽんぽんと肩を叩いてなにかひとこと言った。うんうん、と優は頷くと唇を噛みしめてバッターサークルに戻った。一球ボールを見送った後の球だった。いい感じでバットが振られ、快音を残すと、ボールはライト側の孝雄達のいる方に飛んできた。打球は放物線描いてラインを切るとネットに当たってグラウンドに落ちた。大きな当たりだった。
「わあ、当たった、当たった。けど、これはまぐれや」孝雄は笑った。
「そんなひどいこと言ったげたらかわいそうじゃないですか・・」
早紀子が孝雄をたしなめた。
その後のカーブにタイミングを外された優は大きな空振りをして膝をついた。思わず孝雄は、良くやった、と手をパチパチ叩いた。最終回だったのか、ゲームセットを審判を務めるコーチが告げた。
「いつ金沢に帰らはるんですか?」
と孝雄が煙草に火を点けながら訊ねた。
「明日にでも」
優達がグラウンド一杯に広がってキャッチボールを始めた。すぐ目の前のネット越しにも、子供達の投げたボールがミットに収まる、軽快で心地よい響きが聞こえてきた。
「そうですか」
「・・・」
「長いあいだありがとう。早紀子さんにはどれだけ典子の病気のことで助けてもらったことか」
話すことが山ほどあるはずなのに、お互い言葉にはならない。沈黙が続く。
「いいえ、そんなこと。私の方こそ仲良くしていただいて、ほんとに楽しかったですわ」
「・・・・・」
草むらに潜んでいた羽虫がいきなり上昇し、唸りをあげ、神経を逆撫でするかのように孝雄の眼の前で旋回していた。彼はそれを手のひらで何度も追い払った。
「・・・・・」
しばらく沈黙が続いた。いつの間にか、煙草の火の熱が孝雄の指先まで伝わった。孝雄は慌てて煙草を捨て、ばたばたと靴で火を踏みつぶした。
「・・・最後に一つだけ聞きたいことあるんですけどいいですか?」
一度早紀子に訊ねてみたかった事柄を孝雄は今の動作で思い出した。
「ええ、改まって何ですか?」
「大したことやないんですけど」
「どうぞ」
「高校の時に僕と典子が、そこの大和川へ釣りに行ったんですわ。その時に僕が、川の瀬の音を聞くのが好きやねん、て言ったらしいんですわ。そのことを典子が早紀子さんに話したらしいんですが、覚えたはりますか?」
「ええ、覚えていますよ、もうずいぶん昔の話ですよね」
「その時早紀子さんが、僕の瀬の音が好きだという理由が分かると答えはったらしいんやけど、そのことも覚えたはるかな?」
「はい、もちろん覚えてます。その事がどうかしたんですか?」
と早紀子は言って怪訝な顔をしてみせた。
「別にどうでもいいことなんですけども、早紀子さんはあの時どう分かったんかな、と?」
「ああ、はい。私も好きなんですよ。・・・私も好きだから、多分、孝雄さんの言ったことが分かるような気がしたんです」
「そうですか、早紀子さんも好きやったんですか・・・」
「雨の音聞いていますと、何か慰められるような気がするんです。どんなに悲しいことや嫌なことがあっても、あの音を聴いていると、慰められるような感じがして、すうっといろんな事が消え去るような透明感がわき起こってきて、不思議と平穏な気分になるんです・・・」
「よく分かります、早紀子さんの言うこと・・・ありがとう。それだけですわ、聞きたいこと・・・また気持ちが落ちついたら葉書の一枚でもください」
話はそこで途切れた。
早紀子は一礼して踵を返した。孝雄は早紀子の後ろ姿を見て、まだ何か肝心なことを言い忘れているような気がして、慌てて早紀子を呼び止めた。
「ああ、あの・・」
「なんですか?」
その時、急に強い川風が吹いて、早紀子の肩まである長い髪を悪戯に掻きあげた。
「勝ってたら甲子園やったのにな、ベーヤン。あの時ホームランを打った、泣いてた選手がいま優の監督やってる、ほらあの人ですねん。・・・どんな縁があるんかな。ベーヤンはほんまに昔から優しい奴でした。ドがつく位の優しい奴でした。・・・早紀子さん。ベーヤンもそれでええ思うてるはずです。これから俺の分まで幸せになりや言うて、泣いてる早紀子さんに、ど真ん中の直球投げてくれるはずや。早紀子さんはその球を遠慮なく打ったらええんやと僕は思う。・・・あんまり自分責めんほうがええ、ベーヤンの気持ちも早紀子さんの気持ちも、どちらもよくわかるから・・・」
早紀子の眼から一滴の涙がこぼれ、やがて幾筋も頬を伝いはじめた。この前とは違い、化粧をした早紀子の、筋の通った高い鼻や切れ長の眼やスラリとした白い雪のような頬が眼に入った。
早紀子の微かに匂う化粧の心地よい芳香が風で流れ、孝雄の鼻孔を一瞬刺激した。その時、孝雄は新谷の言うような、無性に狂おしいほどの情念が沸き起こってきて、ベーヤンや早紀子や典子のことを、いとおしく思った。
孝雄の目頭が熱くなって、思わず空を見上げた。いつの間にやら、それまで晴れていた空が、薄灰色の画用紙に、それより少し濃い墨を使い、筆で丸や一の字や斑の点を悪戯して付けたような空に変わっていた。
孝雄は視線をグラウンドに戻した。すると首にスポーツタオルを掛けた典子が、グラウンドに突っ立ったままの姿勢で、じっとこちらを眺めているのが眼に入ってビックリした。
孝雄はそこにいるはずのない典子を見て慌てて何度も瞬きをした。さらにもう一度眼を凝らしてみるとやはり美子だった。美子を典子と見間違えたのだった。
その時、一匹のトンボが黒い尻尾をぴんと後ろに反り返すと、風に逆らいながらも孝雄の目の前を力強く横切っていった。
それを見た孝雄は脳裏に浮かんだ言葉を思わず呟いた。
「新谷さん、どうして死んでしもうたんや。・・・まだ死んだらあかんがな。奥さんひとり残して、息子さんのところに行ってしまうなんて、卑怯やで」
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